遠野の始まり

 縁結びの神様として知られている卯子酉様は嘗ては倉堀神社と言っていたそうな。
 遠野の一体が大きな湖であったその昔、鮭の背に乗って宮家と倉堀両家の先祖が猿ケ石川を遡ってここにたどり着いたという話があります。

 この当時の遠野は広い湖水で、この鮭の背に乗ってきた人たちは、今の物見山の岡続き、鶯崎という山端に住んでいたそうです。そして鶯崎に二戸、愛宕山に一戸、その他に若干の穴居の人がいたばかりであったそうです。

 宮家というのは宮の付く苗字でしょうか。

 倉堀というのは実在する苗字です。遠野では名家として知られている倉堀家の多分末裔であろう友人に詳しい内容を聞いて見たかったのですが、何も知らないとのことでガッカリしました。本当は何か秘密があるのかも知れません。(秘密がありそうです。)

 憶測になりますが、当時、縄文時代さながらの生活を送っていた未開の遠野に文化的な物をもたらしたのが、どこか文化のある地域からやってきた宮家と倉堀家だったのではないでしょうか。
 宮家と倉堀家は農業や林業、商業を生業として起こし集落を作ったと思われます。そこから遠野の歴史が始まったのではないでしょうか。

 確かに遠野盆地は湖だったのかもしれません。私は湿原だったと思います。

 その頃は鮭の遡上を阻むものも無かったでしょう。天然の鮎やウナギも遡上しており猿ケ石水系は本当に豊かだったのでしょう。

 これは冗談で倉堀家の末裔に「倉堀さんの先祖って鮭の背に乗れたくらいだから一寸法師みたいに小さかったんだね。」と言ったことがありますが、実際は遡上してくる鮭を追いかけて来たのでしょう。ちなみに、宮家と倉堀家は鮭を食べないという決まりがあったそうですが、現在の倉堀家は食べるそうです。

阿曽沼公歴代の碑

 1189年源頼朝から平泉討伐の恩恵として阿曽沼氏がが護摩堂山(高清水の麓、松崎町光興寺上の山あたり)に横田城を築き閉伊郡の内、遠野十二郷を治め繁栄しておりました。

 今の市街地は湿原で、松崎町光興寺、宮代のあたりが遠野の中心で、横田村と言いました。

 関ヶ原の戦があった慶長5年、当主は14代広長が、徳川家康の上杉景勝攻めに出陣した留守中、家臣の謀反にあい、約400年続いた政権は滅びたのです。

遠野の歴史と遠野物語

 これから遠野の名所旧跡を調べてガイドするにあたり、遠野の歴史と遠野物語の勉強は欠かせません。

 現在私が参考にしているのは、手持ちの資料として柳田邦夫先生の「遠野物語」、高柳俊郎先生の「阿曽沼興廃記」「柳田邦夫の遠野紀行」「小盆地宇宙遠野」のたった四冊です。後は実際に現場に行ってみて感じて写真を撮って、家に帰ったらググって、考えてみることです。

 余談ですが、学校を卒業したばかりの時に、岩手県の某研究機関に臨時で勤務した頃の上司に「遠野物語の作者は誰か」と聞かれたことがあります。柳田国男先生の名前を出せばそれで済んだのでしょうが、私は「佐々木喜善です。」と言ってしまいました。すると上司に「なんだ遠野の人なのにそんな事も知らないのか」と言われました。(上司は私の事を何て馬鹿な奴だと思ったのでしょう。)

 ひねくれ者の私は、遠野物語の序文にもある通り「この話すべて遠野の人佐々木鏡石君(後の佐々木喜善)より聞きたり」とあるとおり柳田国男先生が考えた物語ではないのです。あえて言うならば、遠野物語は民間伝承なのです。誰が遠野物語の作者ということではないのです。と言い返しました。今思うと「遠野物語」という著書の作者は柳田国男先生で間違いは無いのでしょう。