池端の石臼

<遠野物語第27話>

 

早池峰より出でて東北の方宮古の海に流れ入る川を閉伊川といふ。その流域はすなはち下閉伊郡なり。遠野の町の中にて今は池の端といふ家の先代の主人、宮古に行きての帰るさ、この川の原台の淵といふあたりを通りしに、若き女ありて一封の手紙を託す。遠野の町の後ろなる物見山の中腹にある沼に行きて、手を叩けば宛名の人出て来たるべしとなり。この人請け合いはしたれども路々心にかかりてとつおいつせしに、一人の六部に行き逢えり。この手紙を開き読み手曰く、これを持ち行かば汝の見に大なる災いあるべし。書き換へてとらすべしとてさらに別の手紙を与へたり。これを持ちて沼に行き教へのごとく手を叩きしに、はたして若き女出でて手紙を受け取り、その礼なりとてきはめて小さき石臼をくれたり。米を一粒入れて回せば下より黄金出づ。この宝物の力にてその家やや富有になしたりに、妻なる者欲深くして、一度にたくさんの米をつかみ入れしかば、石臼はしきりに回りて、つひには朝ごととに主人がこの石臼に供へたりし水の、小さき窪みの中に溜りありし中へ滑り入りて見えずなりたり。その水溜りは後に小さき池になりて、今も家の傍らにあり。家の名を池の端といふのもそのためなりといふ。


<現在の池端家>

遠野の一日市には、今でも「池端家」はあります。「今でも裕福な家ですもね」と言うと、池端家の現在のご主人は「そんな事無ぇんだがらよ。」と否定されますが、私などからみたら立派で裕福な家でございます。

この現在の池端家でも宮家と倉堀家同様の鮭にかかわるエピソードがあり、絶対に鮭を食べないそうです。「その昔鮭に助けらたから」だという話ですが詳しい内容はご主人も知らないとのことでした。宮家、倉堀家に伝わる伝承と同じです。宮家と倉堀家に池端家もつながっているのではないでしょうか。

このエピソードの背後にあるのは、もしかしたら縄文人のさらに遠い先祖にもさかのぼる言い伝えではないかとも言われています。

<物見山>

さて、この話に出てくる沼は、物見山の中腹にあった。とのことですが、物見山の麓に暮らしている私には沼の存在が理解できません。物見山では沼なる物を見たことが無いのです。

しいて言えば、物見山の中腹には地震観測所があり、少しばかりの湿地帯だったような気がします。

その他に水がある場所を考えると九重沢の不動尊奥の院のあたりでしょうか?「遠野の町の後ろなる物見山の中腹」と記されていることから、このどちらかだと思っています。

物見山は昔は採草地(家畜のための牧草を刈り取る場所)として使われていたとのことです。採草地として使わていたので水量の少ない山だったそうです。戦後、採草地に杉やカラマツが植林され水量は昔より若干増えたとのことです。

今でも牧野組合の名称だけは残っております。

<物見山謎のストーンサークル>

物見山で大物見と言われている場所には謎のストーンサークルがあります。人工的に作られたと思っているのは私だけかも知れません。どの時代に誰が何の目的で作ったのか全く不明です。ストーンサークルそのものが太陽信仰のための宗教的なものなのか暦として使っていたのか、そもそも謎に満ちているものです。東北地方には謎のストーンサークルが多いことから、縄文人によって作られたのではないかと思っております。