遠野の市街地から盛岡街道を通り綾織町の山口という地域、千葉家への上り坂の手前の山側に「続石」への登り口があります。
ここには観光用の駐車場もあるので、いつでも気軽に来れるとの思いがあったのですが、なかなか来れないでおりました。
先日急に思い立って「で・くらす遠野」様のWebサイト上で使う写真を撮影しに行きました。
登り口からは360m程度なのですが、若い頃と違い日頃の運動不足が祟って息が上がってしまいます。ゆっくり登りましょう。
<<遠野物語拾遺 第11話>>
綾織村山口の続石は、この頃学者のいうドルメンというものによく似ている。二つ並んだ六尺ばかりの六尺ばかりの台石の上に、幅が一間半、長さが五間もある大石が横に乗せられ、その下を鳥居のように人が通り抜けて行くことができる。武蔵坊弁慶の作ったものであるという。昔弁慶がこの仕事をするために、いったんこの笠石を持って来て、今の泣石という別の大岩の上に乗せた。そうするとその泣石が、おれは位の高い石であるのに、一生永代他の大石の下になるのは残念だといって、一夜じゅう泣き明かした。弁慶はそんなら他の石を台にしようと、再びその石に足を掛けて持ち運んで、今の台石の上に置いた。それゆえに続石の笠石には、弁慶の足形の窪みがある。泣石という名もその時からついた。今でも涙のように雫を垂らして、続石の脇に立っている。
源義経に仕える怪力無双の荒法師として名高い武蔵坊弁の慶伝説は東北には非常に多く至る所に「弁慶の足形」や「弁慶の手形」と言われるものが残っている。
歴史では、衣川の戦いで義経は、一切戦うことをせず持仏堂に籠り、まず正妻の郷御前と4歳の女子を殺害した後、自害して果て、弁慶は衣川の舘を攻められた際、弁慶は並み居る敵兵を次々倒すが、ついには無数の矢を受けて薙刀を杖にして仁王立ちのまま息絶えた(弁慶の立ち往生)と伝えられているが、実は生きていて北方に逃げ延びた伝説もあり歴史ロマンさえ感じる。