能傳房神社

年代等は不明なるも、昔某なる者荷澤にて採金事業を行ったが、それが思わしくなく困窮していたおり、偶々、出羽より賽覚坊の兄弟法師が通りかかる。
某は、この両法師に金の所在を法力により示されんことを懇願せしに、幸に両法師の法力により、僧が沢に金を掘り当て、事業は大繁盛したが、某なる者は無情にも翌春になり両法師を着の身着のままで追い出したと言う。
両法師は、その無情を恨みその場で三七、二十一日間、荊の芽を食いつつ怨みを晴らさんと呪詛せしが、恰も満願の日になり、俄に大雨降りて金山は勿論、人も馬も小屋も流失し、両法師もその場で倒れ埋もれたと言う。
その後、天明年間(一七八一年代)の大飢饉に、里人が蕨の根を掘り起こすと人骨が出てきた。古老に聞くと例の兄弟法師の骨であろうと言い、これを埋めて塚を築いた。今の能傳房は即ちこれである。
この能傳房は、何人に対しても一生一度は必ず願いごとを聞くと伝えられ、利益を受けんとして参拝する者年中絶えず、遠野近郷より、農閑期には毎日隊をなして詣でる者夥しい。現在の石碑には「神教院能傳房良眼阿闍梨法師」と刻し天保一二(一八四一)年に建てられたものなり。
一方の寶覚坊は、水銀発掘の法力者で、辰砂山での水銀採鉱の技師との説もある。この神社境内の小高い所に小祠があり

能傳房神社の場所は下記のとおり

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