遠野という街 其の1

明治42年8月23日に柳田先生が遠野に初めて足を運んだ時の感想を「遠野物語」の序文で次のとおり記している。

 

昨年8月の末、自分は遠野郷に遊びたり。花巻より十余里の路上には町場三か所あり。その他はただ青き山と原野なり。人煙の希少なること、北海道石狩の平野よりもはなはだし。あるいは新道なるがゆえに民居の来たり就ける者少なきか。遠野の城下はすなわち煙花の街なり。馬を駅停の主人に借りて一人郊外の村々を巡りたり。その馬は黔き海藻をもって作りたる厚総を掛けたり。虻多きためなり。猿ケ石川の渓谷は土肥えてよく拓けたり。路傍に石塔の多きこと、諸国その比を知らず。高処より展望すれば早稲まさに熟し、晩稲は花盛りにて、水はことごとく落ちて川にあり。稲の色合いは種類によりてさまざまなり。

 

花巻から遠野までの道のりは、十余里とあるから50km程度、その途中に街場が三か所(東和の土沢、宮守、鱒沢だろうか。)、北海道の石狩の原野より寂しい所と感じたが、遠野に入ったとたんに、その華やかな様子に驚いたようである。城下町であった遠野町は人々で賑わう街場だったのだ。

遠野という地名は、もとを質せば中世にあった呼称「遠野保」(「保」というのは平安時代末から室町時代にかけて、一定の所領をあらわすのに使われた呼称)にさかのぼる古い呼び名である。その遠野の範囲はよくわからないが、山に囲まれた盆地全体を含んだ現在の遠野市の範囲が、阿曽沼氏が支配した中世においても、遠野南部家が支配した近世においても、人や物が行き交う文化圏であり交易圏であったよ考える。それは近代においても大きな変化はなく、狭い範囲として遠野という街場を中心として、東西南北に道が伸び、峠を超えて釜石、大槌、宮古、盛岡、花巻、北上、江刺、住田、大船渡、陸前高田と繋がっていたのだ。

矛盾する言い方だが、遠野という所は山に囲まれ閉ざされた盆地の集落であるとともに外に開かれた中継地であり、交易の中心地であった。

 

交通手段が列車や車に変わり、鉄道や道路が整備されてくると中継地、交易の中心地という性格は無くなってしまった。

そして、昭和の終わり頃から、市街地の北側のバイパス沿いに商業施設が建つようになり、かつての遠野の街場は寂れてきた。

古い商店だった建物などもちらほらと取り壊され更地になっている所も増えてきた。

寂しい限りだ。何とか昔の(この当時の)賑わいを取り戻せないものなのか。

そんな遠野の街場であるが、昔の面影を探して歩くのも楽しいものである。