「遠野小学校」が「遠野東小学校」と言われていた当時のことである。
春の運動会開催の前夜に小学校が燃えてしまった。小学校に入学したてで運動会を楽しみにしていた私の家からも明々と巨大な炎が立ち上るのが見えたのを覚えている。
その時は折角の運動会が中止になった事を残念に思っていただけであったが、後日父親から「遠野東小学校の場所は女学校で建設当時から色々な事故があり、火災にも遭った因縁のある場所だ」と聞いた。
私の小学生低学年の時は、そんなこんなでまともな小学校生活もままならなかったようで、三年生になるまでの思い出というのが欠落してしまったのだが、焼け跡も片付いた頃、全校生徒で校庭の石拾いを行った時にガラス破片や小石の他に小さな墓石が出てきたのを覚えている。その時、この場所は昔お寺があったのだと聞いた。
この遠野小学校の場所に纏わる因縁というのが「松川姫」に係わるものであると言うのである。
松川姫の話(「遠野町古蹟残影」より)
遠野領主南部氏二十六代の頃、利戡と申す方にトリといふ姫君ありて、当時盛岡の邸に居りたりしが、不図病にかかり種々治療を施せしも効を奏せず、永き間床上に呻吟せり。或時「鰻を喰ひたい。」と望みしかば、人をつかはして是を探し食膳に上せけり。然るに姫君の病は日に日に快方に赴きぬ。やがて件の鰻を捕りし川を見んとて、市外の松川といひける所に駕籠に乗りて赴きけり。何思ひけん姫は侍臣の隙を見て、駕籠より立ちいで身を川に投じて、果敢なき最後を遂げられぬ。やがて遺骸は領地遠野に移され、当時領主の帰依せられし東善寺に葬られぬ。後巷間伝へて松川姫と呼ぶ(東善寺は真言宗にて四世快翁和尚の時なりと)。さて、おとり姫死後は城中にて怪事しきりに起りしため、東善寺後ろ庭池の中島に祀りありし弁才天に姫を合祀し、松川神社と称し冥福を祈りけるに、以後城中の怪事はたと止みたり。姫の入水せられし五月十五日を以て祭日となし、爾人婦人の崇拝あつめたりといふ。維新となるや件の東善寺は廃寺となり、池も社も影なくすたれ、水田菜圃の間に僅かに墓地を止めて、今は三ケ寺(東善寺の外に二ケ寺ありしが共に廃寺となる)といふ。土名を存するに過ぎざりしが、過ぐる大正十一年、此地実科高等女学校の敷地に選定せられ、その工事中奇怪なる出来事のみ続きし故、古き伝説に遡り校地の一隅に叢詞を営み祭祀を行ふ。其後怪事止みたりと。
昔の遠野町の地図(下図)を見ると確かに東善寺と他二つの寺のあった場所は現在の遠野小学校である。
遠野物語拾遺第31話にはこの内容とは違う話がある。
前にいう松崎沼の傍には大きな石があった。その石の上へ時々女が現れ、また沼の中では機を織る梭の音がしたという話であるが、今はどうか知らぬ。元禄頃のことらしくいうが、時の殿様に松川姫という美しい姫君があった。年頃になってから軽い咳の出る病気で、とかくふさいでばかりいられたが、ある時突然とこの沼を見に行きたいと言われる。家来や侍女がいくら止めても聞き入れずに、駕籠に乗ってこの沼の岸に来て、笑みを含みつつ立って見ておられたが、いきなり水の中に沈んでしまった。そうして駕籠の中には蛇の鱗を残して行ったとも物語られる。ただし同じ松川姫の入水したという沼は他にも二、三か所もあるようである。