はるか昔のこと、奥州閉伊郡遠野の横田城主は、俵藤太藤原儀秀郷の後胤奥州阿曽沼郡の領主阿曽沼四郎広綱である。文治五年、頼朝公が奥州の藤原泰衡を御退治になった時、広綱は軍役について奉仕し、戦場で手柄があったので、ご褒美として閉伊郡のうち、遠野十二郷を賜った。遠野に入部して横田村護摩堂山に城を築き、横田の城と呼んだ。
(里人の伝説では、遠野十二郷の内、下六郷は達曽部、田瀬、鱒沢、小友、綾織、宮守をいう。上六郷の村の名前は知らない。護摩堂山の麓に田があって、四方へ回って見ても、みな横に見えるのでここを横田というそうだ。)
鍋倉山へ城を移すまではこの場所が遠野の政治的中心市だった。正面に猿ヶ石川、早瀬川などの河川が流れ、背後に高清水という険しい山があることから、天然の要害で守りやすいために選んだという。
後に、猿ヶ石川がたびたび洪水して、川向いに住んでいる家臣が行き来するのが遅れて、急用のときには差し支えがあった。それで護摩堂山の城の南、鍋倉山に新しく城を築いて移った。
この横田城跡を訪れる人は多くはないが、城跡には薬師堂が建てられ、遠野市指定記念物(天然記念物)のヒガンザクラとヤマザクラがあるので是非行って見てほしい。
ヒガンザクラとヤマザクラは横田城の主郭跡に、三百年以上前に植樹されたもので、四月下旬から五月上旬に花を咲かせる。