喜清院は青笹町にある宗洞宗のお寺で、土淵町の常堅寺の末寺であったそうです。
ここの本堂前に自立しているシダレザクラの大木です。
寺伝によれば、享保五年(1720年)第六世積元が南部家から拝領し、堂前に手植えしたものが明治23年(1891年)の火災で類焼し、その実生を植えたものが現在の木である。 南部家の草履取りであった積元和尚は、藩主の喪に菩提を弔うべく出家して喜清院住職となり、主家南部に赴き墓前にて焼香礼拝し、帰途に一本の桜樹を拝領し、墓前に手植えしたと伝わる。 曹洞宗喜清院は、江戸時代初頭の慶長10年(1605年)に土淵村常堅寺の末寺として建立された。 市指定天然記念物並びに遠野遺産に認定されています。
喜清院は遠野物語にも登場しています。
【遠野物語 第97話】
飯豊の菊池松之丞という人傷寒を病み、たびたび息を引きつめし時、自分は田圃に出でて菩提寺なるキセイ院へ急ぎ行かんとす。足に少し力を入れたるに、図らず空中に飛び上り、およそ人の頭ほどのところを次第に前下りに行き、また少し力を入るれば昇ること始めのごとし。何とも言われず快し。寺の門に近づくに人群集せり。何故ならんと訝りつつ門を入れば、紅の芥子の花咲き満ち、見渡すかぎりも知らず。いよいよ心持よし。この花の間に亡くなりし父立てり。お前もきたのかという。これに何か返事をしながらなお行くに、以前失いたる男の子おりて、トッチャお前もきたかという。お前はここにいたのかと言いつつ近よらんとすれば、今きてはいけないという。この時門の辺にて騒しくわが名を喚ぶ者ありて、うるさきこと限りなけれど、よんどころなければ心も重くいやいやながら引き返したりと思えば正気づきたり。親族の者寄り集い水など打ちそそぎて喚び生かしたるなり。
魂のゆくえ(どこから来て、どこへ行くのか)
この話の中では、臨死体験が語られている。魂のゆくえという重要な問いかけの一つである。
数万年前、旧石器時代から、既に人は死者に花を供えて埋葬したと言われている。縄文時代半ばには集落の真ん中に共同墓地を整備していたこのこと。
縄文時代から人は、「人はどこから来て、どこへ行くのか」魂の行方を考えていたのである。