ダンノハナ

 ダンノハナとは遠野の各集落ににあったと言われる墓地兼処刑場だったそうである。

 遠野の言い伝えや、当時の噂話を”佐々木喜善”氏が”柳田国男”先生に話したことで「遠野物語」が誕生したそうである。

 その”佐々木喜善”氏の墓が土渕町山口のダンノハナにある。

 遠野物語の序文でも柳田先生が次のとおり記してある。

 この話はすべて遠野とおのの人佐々木鏡石君より聞きたり。さく明治四十二年の二月ごろより始めて夜分おりおりたずたりこの話をせられしを筆記せしなり。鏡石君は話上手はなしじょうずにはあらざれども誠実なる人なり。自分もまた一字一句をも加減かげんせず感じたるままを書きたり。思うに遠野ごうにはこの類の物語なお数百件あるならん。我々はより多くを聞かんことを切望す。

 

 「鏡石」君とは佐々木喜善のペンネームだったそうである。当時の喜善氏は文学者を目指し早稲田大学の文学科に在籍しており、終生の友人となる水野葉舟と出会い、日に一度はお互いの下を訪ね合う程になる。1905年(明治38年)頃、親友の水野から勧められる形で筆を執り、佐々木鏡石(きょうせき)の筆名で小説を発表し始める。1907年(明治40年)、短編小説『長靴』が、憧れであった文芸雑誌『芸苑』に発表され好評を得る。喜善はその後も精力的に作家としての創作活動を続けることとなった。

1908年(明治41年)11月4日、佐々木は水野の紹介によって柳田國男に知己を得、牛込加賀町の官舎を尋ねる。このとき、喜善は学者とばかり思っていた柳田の役人然とした立ち振る舞いに大いに面食らったという。晩年の柳田も当時を振り返って「喜善の語りは訛りが強く、聞き取るのに苦労した」と語っている。その後、柳田は喜善の下宿を訪ねたり、また、喜善が求めに応じて柳田の下を訪ねるやりとりが始まり、この時、喜善の語った遠野郷の民話や伝説を基に、柳田が『遠野物語』を著す。

1910年(明治43年)に病気で大学を休学し、岩手病院へ入院後、郷里に帰る。その後も作家活動と民話の収集・研究を続けるものの、小説家としては以後会心の作に恵まれなかったことと、柳田の影響や要請もあり、次第に郷里である遠野の民話や伝説収集に文筆活動の主軸を移してゆく。この間に発表された民話集に『遠野雑記』『奥州のザシキワラシ』『江刺昔話』『東奥異聞』『聴耳草紙』『老媼夜譚』などがある。

民話収集の傍ら、土淵村村会議員・村長(在任:1925年9月27日 - 1929年4月4日)を務めるが、村長職という慣れない重責に対しての心労が重なり職を辞す。同時に多額の負債を負った喜善は家財を整理し仙台に移住。以後生来の病弱に加え生活は困窮し、数え年48歳で病没。神棚の前で「ウッ」と一声唸っての大往生だったという。「日本のグリム」の名は、喜善病没の報を聞いた言語学者の金田一京助によるもの。

 

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 余談ではあるが、佐々木喜善氏は1933年9月29日に亡くなっており、その28年後の9月29日に誕生した人物が私の友人の佐々木○一氏(遠野駅前民宿の主)である。佐々木喜善氏と同じように遠野の郷土史や民間伝承を研究しているのである。

 私が思うに彼は佐々木喜善氏の生まれ変わりなのではないかと勝手に言っている。